産地・国分寺を歩く 生産者が個性競う時代
高松市国分寺町は南北に細長い町で、四国霊場八十番札所の国分寺やボタンで有名な法華寺がある北部地区に盆栽生産者が集中している。特に国分寺北部小学校から北の一帯は盆栽郷の趣だ。
錦松の発祥地
国分寺町は錦松の元祖末沢喜市翁(1864―1931年)の出身地で、錦松の発祥地でもある。
明治、大正、昭和にかけて、喜市翁とともに錦松の培養に没頭した男たちがいた。いずれも国分寺盆栽の功労者だ。故橋本専次さんもその一人。専次さんは錦松の穂木を大正末期に接ぎ木、その木が氏の名前を冠した専松園にある。氏の孫橋本正博さんは数少ない錦松専門の生産者だ。
昭和40年代の国分寺町は錦松一色だったが、生産過剰などで価格が暴落、大半の生産者が黒松や五葉松に転向した。孤塁を守る正博さんは「錦松は年数の割に価格が安く、虫もつきやすいため人気が落ちている。だが、国分寺の伝統は何とか守りたい。最近、葉が太くて短い錦松を育てており、手ごろな大きさがそろえば再び脚光を浴びると思う」と決意を語る。
盆栽センター
1966年4月1日、南北農協が合併して国分寺町農協が誕生。同年5月30日、農協盆栽部会がスタートした。部会の大きな事業が、68年のJA国分寺盆栽センターの開設だった。
県道33号沿いの約千坪の広場で常時8000鉢の松、雑木を展示即売。品ぞろえ、値段の安さとも評判で、盆栽ファンのちょっとした聖地になっている。
74年には260人が登録していた盆栽部会員は、現在80人に減っている。後継者不在、価格の低迷など、マイナス要素も多い。
部会の平松清会長は「これからは原石の産地に甘んじることなく、専門家に扱ってもらえる商品の開発が必要。現代風の飾り方や楽しみ方の提案など生産者が個性を発揮しなければならない時代だ」と警鐘を鳴らしている。
(ライター・羽野茂雄)