さぬきの栽培史 隆盛築いた偉大な先人
日本一の香川の盆栽は、いつごろ始まり、どんな経緯をたどって今日を迎えたのだろうか。産地の高松市鬼無地区、同市国分寺地区には、それぞれ盆栽の隆盛に貢献した先人がいた。
商才光る渡辺半太郎
鬼無町の盆栽は文化年間(1804―18年)に始まった。砂質の土地が多く、水はけがよく植木や盆栽栽培に適していたという。
県鬼無植木盆栽センター広場にある顕彰碑によると、発端は高橋周輔の登場である。高橋は接ぎ木の名人で、村人に技術を伝授した。同時期に北山太作は、松柏の苗木を育てて巨利を得たという。
高橋に学んだ鬼無甚三郎は、リンゴの苗を米国から輸入して、山林や畑に植え付けた。リンゴの栽培者は増え、苗木の注文も殺到した。
これに注目したのが渡辺半太郎。どんな松やヒノキもその手にかかるとたちまち見事な盆栽に変わったという技術に加え、優れた経営感覚で宣伝販売にも力を入れ、国内はもちろん、朝鮮半島、琉球にまで販路を拡大した。
こうした先人の遺産を後世の人々が受け継ぎ、地道な努力や改良を重ねた結果、鬼無は隣接する国分寺とともに日本一の産地に成長し今日に至っている。
錦松の元祖末沢喜市翁
国分寺町は、錦松の発祥地として知られている。1892(明治25)年ごろ、末沢喜市翁のところに山掘りの見事な錦松を持ってきた者がいた。喜市翁はこれを高価で買い取り、培養した。それから2年後、接ぎ木に成功して大量生産を可能にした。
翁は、この技術を独占することなく、普及に奔走するとともに教えを請う者には惜しげもなく公開した。これにより国分寺の盆栽界は、一気に黒松から錦松へと変貌[ぼう]していった。
第2次世界大戦で盆栽は一時中断するが、戦後復活し、1963(昭和38)年に見事に皮がはぜる旭光(きょっこう)錦松が登場、圧倒的な人気を得て、盆栽農家の畑は旭光一色に塗りつぶされるほどに普及する。
現在、松盆栽は黒松と五葉松が主流となり、錦松を手がける業者は激減しているが、喜市翁は今も錦松の元祖として国分寺盆栽最大の功労者と仰がれ、顕彰する石碑が盆栽神社に建っている。
(ライター・羽野茂雄)